ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

孤独な球体

重力発生装置のスイッチを入れると、ブーンというアクチュエーターの音が小さく響きだし、しばらくすると風が流れてきた。というより、船体が一定速度で回転を開始したせいで、止まっている空気が攪拌されはじめたという方が正しい。Itabashi Ermitage 2008の船内は今は静かで、ルーティン・ワークの計器のチェックをしている涼音の他、起きている船員は誰もいない。強制コールド・スリープに入っているのだ。タイトなスケジュールをこなすために船員一人ひとりの実働時間のコントロールは欠かせない。
一通りのチェックを済ませてしまうと、ごわごわしたミッション・スーツを脱ぎ捨てて、Tシャツだけになる。その姿で涼音はコーヒーを落とした。遠心力が効いている今は地上と同じ条件でコーヒーを淹れる程度の調理が出来るのだが、ラフな格好でそんな所作を楽しむ感覚は、学生時代、ひとり暮らしをしていた頃と変わらないわ、と涼音は思う。マグカップを持って、複雑に揺れるコーヒーの湯気を通して、巨大なモニターが映し出す地球の夜を見ながら、ソファに腰を下ろした。自然発光する塗料が白く照らし出す船内で、一人過ごす時間を、涼音は嫌いではない。
この小さい船から見る地球は、半透明の膜をまとった青く輝く球体。陰になっている部分は夜で、瞬く光が密集した部分は都市である。昼の部分では表だって見えない人間のエネルギー消費が、夜の部分ではひっそりと明らかになる。
地球を外側から眺めると、他の衛星と等しく宇宙のパーツのひとつであることがよくわかる。その孤独な球体の表面に、夜になると見えてくる、寄せ集まって暮らす人間のクラスター。そこから遠く離れて、宇宙に浮かぶItabashi Ermitage。重力は仲間に属したいと思う衝動に似て、それでいて遠く離れてひとりでいたいと思う気持ちは遠心力だ。その釣り合いが、今のポジション−つまり地上400キロの衛星軌道にいるというわけ。ここでは人工的に作られた夜と昼があり、夜にはコールドスリープで皆が一人一人、ゆりかごと称した棺桶に入って人工的な睡眠に就く。地上で群れる夜の灯り達とは対照的に、そこにあるのは孤独な眠りだ。
LEDが青から緑に変わって、コールドスリープから覚醒したことを示すアラームが鳴った。かつてNAMCOから出ていたゲーム・DIGDUGのテーマである。こういうアラームを設定するのは木下しかいない。案の定、脇腹をボリボリと掻きながら現れた木下はだらしないスウェット姿である。
「おはよう木下未来」
「おはよう涼音」間延びした顔で木下はあくびをした。ついでといった風情でおならをした。
「さわやかな目覚めみたいね」
「うん。快食快眠、そして快便」
幼児退行現象は、コールドスリープ明けには誰にでも起こるもののようで、人工冬眠理論では副作用とされている。しかし木下の場合は、意図的に幼児退行している節がある。半ば呆れ気味に眺める涼音を見て、木下はにやりとした。
「涼音、ホームシックか」
「何でよ」
「モニターに金澤大映しになってるけど」
「別に。街がずいぶん変わっちゃったなって。ほら角間のあたり、あんなに灯りがともって」
「ああ、昔は大学の周りは熊が出る環境だったからな」
「第七餃子はまだあるのかな」
馬場崎が半年前に喰ったって言ってたけど?」
「じゃまだ大丈夫ね。次に降りたとき、私も行ってみようかしら。さ、引き継ぎよ」
中国の衛星破壊の余波で出現したデブリ群を抜ける際のモニタリングの注意点と、重力発生装置の停止時間、たたんであるリフレクタの展開タイミングを伝える。エネルギー収支の余裕がレッドアラートぎりぎりであること、大気圏突入準備のためにリフレクタによる充電を長めに行うこと、それから次のシフトまでのコールドスリープを1ヶ月取ることも。
「そっか、じゃ1ヶ月後に起きたときは、丁度地上に降りる直前になるのか」
「そう。1年ぶりの帰郷ね」
「涼音」
「何よ」
「次に俺が起きて、地上に帰ったらさ」
チェックボードに目を落とし、エンピツの端を囓りながら、木下が言う。
「…何?」
「バッティングセンター行こうぜ。身体がなまってしょうがない」
「いいけど。何賭ける?」
「第七餃子。中中豚汁」
「オッケー。金澤までの旅行代も載せようか」
「ああ」木下は生返事をしてひらひらと手を振る。ああ。このひと、わかって言っているんだ。少し哀しく思いながら、そのまま木下を一人残して、涼音はリビングのゲートをくぐり、棺桶に向かう。
重力発生装置がまだ働いていることを確認してから、涼音は服を脱ぎ、シャワーを浴びる。身体に残った水滴をバキュームですべて取り払い、それからブリスターパックされたパジャマのパッケージを破る。さらさらしたパジャマの肌触りを楽しみながら、涼音は身仕舞いすると、ゴミを片付け、球形の棺桶の中に身体を滑り込ませる。
おそらくさっきの会話は、コールドスリープ中のブレインウォッシュですべて消去されるのだろう。私の記憶からも、木下の記憶からも。乗務員管理システムはミッションに不必要な感情変動の原因になりかねない記憶をすべて排除する。
それでも、もし万が一、あの約束がお互いの記憶に残っていたなら、10月の秋空の下で、木下と一緒に賭けバッティングをしよう、と涼音は思う。この宇宙の中、孤独な球体の上で、ほんの少しだけ寄り添う楽しみが共有できるのなら、それはそれでいいものだろう。地球から見上げる真っ青な秋空を想像しながら、涼音は睡眠導入装置のスイッチを押した。