ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

おでんや「あぶらつぼ」

その店は四谷三丁目にある。のれんがかかるわけでなく、看板が出ているわけでもない。しっとりとした夜気をまといながら、犬夜来がしつらえてある塀の門をくぐる。ホテイアオイの浮かぶ手水鉢をよけ、格子戸を開くと、綺麗に磨きこまれたカウンターの向こうで、クライマックスシリーズを見ていた女将がいそいそと立ち上がって微笑みかける。白檀の匂い立つ、小股の切れ上がった和服美人(相田翔子にそっくり)である。
「セーンセ?ずいぶんとお見限りでしたこと」
「やあ小函さん、久しぶり」
「あら先生、こんばんは」
「ああスナギモも。元気だったかい」
スナギモは26歳のアルバイトで、全く飾りっ気がない。ショートボブの頭をくるんくるんさせてよく働き、よく笑う。僕からジャケットと帽子を受け取ると、玄関の脇に置いてあるブラシをかけて、それから衣紋掛けにまとめて壁の釘に下げる。
「熱燗を一本つけてください。あとがんもとバクダン、それからちくわぶを頂戴」
「ご飯はまだなんですか先生」
「ああ。今日は朝から食べていないんだ」
「それでお酒だと、身体に毒ですよ。スナギモ、そばがき出してあげて」
「はーい。ご飯食べないでよく動けるよな…」
ここは誰にも知られていないおでん屋である。原稿取りから逃れるときは、僕はよくこの店に隠れる。静かで雰囲気が良い店なので、僕も矜恃を正して来る。清潔で、整頓されて、美人がいて。
「はい先生そばがき。ご飯食べないの?相変わらずあのご飯作りにくい家に住んでるの?」
「うーん、そろそろ引っ越そうか思案中なんだけどね、もう少しもののない広々したところに」
「何それ結婚準備?先生のところにも奥さん来るんだ、ね、そうでしょ」
「いやそういうこととはまったく関係なく…、スナギモ。奥さんはNHKの集金とは違うんだよ。そんなに簡単には、奥さん来ません」
「そう?だって先生くらいの歳の方なら奥さんいらっしゃる方が多いんじゃないの」
「スナギモ、口が過ぎますよ」と小函さんはたしなめるが、その実テンポの合わない僕らの会話を楽しんでいるようなのだ。一人で切り盛りしているので、客相手はもっぱらスナギモの役目である。小函さんはたまにスナギモをたしなめたり、話題を振ったりしながら上手く店全体の客をコントロールする。スナギモは遠慮を知らないので、僕も興に乗って変な話をしてしまい、小函さんを苦笑させたり眉根を寄せさせたりすることになる。
昨日は僕の他に客が無く、スナギモは僕を相手に夢判断の話をしていた。じゃひとつ、僕の一昨日見た悪夢を判断して貰おうか、っていうことになる。
「どんな夢なんですか先生」
「僕が結婚して、子供を授かるっていう夢」
「それがなんで悪夢なの。先生も結婚が人生の墓場だっていう類の意見の人?」
「赤ちゃんが斉藤晴彦なんだ。メガネも掛けてて、早口でまくし立てるっていう」
へーんなの、そんなの判断できないよ。とスナギモ。
「何かもっと象徴的なものは出てこないの?家とか、木とか」
「ううん、斉藤晴彦だけ。生まれたてのくせに、早くご飯を作りなさいよ!ってどやしつけられた」
しゃっくりのような音が聞こえたので、カウンターを見ると、小函さんが涙を流して笑っていた。斉藤晴彦がツボだったらしい。