ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

山歩きの悦楽。

夢かうつつか判らないのだけれど、誰かが僕を呼んでいる。
「木下」
「ん」
「木下」
「んん…ん?」
「木下未来!相変わらず寝起きが悪いなあ」
「…なんだ、涼音か」
「久しぶりに会ったって言うのに、この歓待ぶりは何?」
「ヒールが背中に刺さって、とても痛いよ涼音。どうしたんですか、今日は仕事は」
「ありません。今日は人並みにお休みなんです。それよりどうしたの、この散らかりようは?」
「ああ、昨日まで唐沢鉱泉に行っていたんだ。天狗岳登って一周してきた」
1日早朝、僕は環八をあり得ないスピードで下っていた。猫足は久しぶりのお役目に少々不機嫌で、きつめのアクセルワークに息つきを見せていたが、暖気が進むと勢いよくDOHC4バルブの単気筒を回し始めた。3時集合で、起きたのが3時。って、あり得ないじゃないですか木下さん!という電話を南斉がよこしたのが30分前。すでに井荻トンネルを越えて世田谷にさしかかった僕は、楽勝で4時には合流できると踏んでいた。しかし、多摩川を渡るルートが判らないのである。さんざっぱら迷った挙げ句に二子橋を発見、高津の古葉邸に滑り込んだのが4時を15分ほど回った時刻。南斉夫妻と古葉君が勢揃いして、猫足を取り囲む。
「木下さん、あのさー。」南斉が苦笑いしている。南斉の嫁の美路とは、南斉の結婚式ぶりである。鉄道会社職員の古葉君は、帝建に出向していた男で、先シーズンからスキー仲間である。古葉君は「良いですよ木下さん、実はね…」と顎を車に向かってしゃくってみせる。ボンネットを開いたアウトバックは今まさにバッテリーを充電し終わったところだという。「読書燈ひとつつけてただけなんですけどね…」と恐縮してみせる。
「あなたのそのイベント毎の遅刻癖って、何とかならないものなの?」
「どうなんだろう。前の日にいろいろ準備に手間取ってね」

  • 0800 唐沢鉱泉から登山道に取り付く。第一展望台→第二展望台→西天狗岳までを大体コースタイム通りに進み、天気は快晴。岩壁がかなり荒くて、テトラポットを登っているよう。東天狗岳を過ぎたところで1230。ここで痛恨のコースミスをしてしまい、リカバーするのに30分。
  • 1300 折からの強風がメンバーから体力を奪っていく。なかなか良いサイトを発見できないまま黒百合ヒュッテに向かう途中、1400に遅めの昼食。そこまで風が強すぎて炊事できなかったんである。あまりの風の強さに美路は半泣きっぽくなっていたが、何とか耐えて元気に下っている。
  • 1430 黒百合でトイレも兼ねた小休止を取る。雲の流れが速く、何とか持ってくれないかな…と思った矢先に雨になる。ヒュッテの人から、一分一秒も速く下山するように言われる。曰く「唐沢鉱泉近くの林が深くて、16時には足下の確保が難しくなります。それからこの雨、じきに雪になります」。念のためにライトの装備の確認をすると、古葉君のライトに電池が入っていない。予備電池を出して事なきを得る。
  • 1500 黒百合発。深い森を黙々と抜けていく僕ら。まるでノルマンディのメルヴィル砲台確保のために森を進むイギリスの空挺団みたいだ。雨で、視界が悪い。宿着の目標は16時30分。それ以降は周囲の状況を見て、渋ノ湯に抜けるか、唐沢鉱泉を目指すか決めようと思った。夜の森林行の経験がなかったからだ。足が滑って、時々誰かが尻餅をつく。そのたびに他の人が身体を支えてやって、大丈夫か声をかける。段々みんなが無口になる。古葉君はしんがりを務め、南斉は美路のサポート、となると勢い僕はペースメーカとしてみんなを無事にこの暗い森から引き出す事が使命になる。最悪の状況に備えて、僕は携帯電話を温存すべく電源を落とした。入山に先立って提出した登山カードには僕の携帯番号が書いてあるのだ。
  • 1600 高度計を見るとあと100mほど下らなければいけないはず、と思っていたところ、思いがけなく開けた視界の先に唐沢鉱泉の灯りが見えて、一同ほっとする。結局1620に下山。高度計は70mほど補正が必要だった。山頂で補正をかけたのだけど、気温変化とかで誤差が出まくりなんだよね。

「なんだか、朝に1時間ロスしたのが最後まで響いている気がするけれど」
「全くだ。リーダーとしては失格だね。でもね」
「何?」
「身体を極限まで使い切るのって、すごく気持ち良いんだ。温泉も有り難かったし、酒も旨かったしね」
「何か、美路ちゃんが可愛そうだわ。無理してたんじゃないかしら。それに無理と言えばあなたもよ、木下。自分の年齢を判ってやっているの?」
「年齢なんて知らんよ。やってみて出来るうちは楽しむし、楽しめるかどうか確かめることは嫌いではないよ」
「それにしてもホント、片付けるのが下手ねえ。どうするのこれ」
「作戦ラックのコンテナに、全部放り込んでしまうんだが、その前に乾かさないとね」
「全く、世話の焼ける」
ぱたぱたと片付けを始める涼音を見ながら、僕は布団に潜る。眠いんだ。そして筋肉痛がひどいんだ。