ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

いつか見た青空、っていう題のお仕事。

「せーんせ?ちょっとは進んだ?」
とんとんとん、と軽やかな音をさせて階段を上がってきたスナギモが、ほうじ茶とたくあんの載ったお盆を置きながらたずねる。
「いや、全然だね。スランプって言うんだろうかねこういうの」
ここ二日ばかり「あぶらつぼ」の2階に間借りして、僕は原稿を書いている。商業誌とも言い難い小冊子(DイワMナクルCェーンのグループ内広報誌)のスペースつぶしに使われる短編は、世紀末の、雪のように放射性物質が降りしきる工業地帯の物語になるはずだ。ペラ5000円の実入りである。
小函さんに呼ばれたスナギモが部屋を出ていった後、僕はほうじ茶をすすりながら四谷の曇天を見上げ、イメージをふくらませる。重苦しい、鈍い爆発音が響く銅色の空と、コンビナートの輪郭で複雑に黒く切り取られたスカイライン。よし、筆が滑り始めた。僕は主人公の目になって、マンションの曇った網入りガラスからその空を見上げるところを想像する。
夜になると第三工場の煙突から湧き出る濃い煙を通して、オレンジ色の炎が吹き上がるのを見ることができる。冬になると見られるこの炎は、何かよからぬものを処理している業火だというもっぱらの噂だった。
この街の真ん中に集積する工場群が何を作っているのか、誰も知らない。街は以前、鋳物工場であったそれらの門前町として同心円状に栄え、それから政府の生産計画に則って工場が摂取された後は街そのものの存在維持のために新陳代謝を続けた。工場群はもはやかつての牧歌的な佇まいとは似ても似つかない群塊と化し、毎日数十台の大型トラックが何かを運び込み、何かを運び出し続けていた。
街と工場は別々に存在し続けた。ちょうどドーナツとその真ん中の穴のように。
僕はこの街で生まれ、育った。僕のあたまの上には常に煤塵でブロンズに染められた空があり、それが天蓋となって僕らを覆っているのが当たり前だった。僕が生まれたときにはもう、工場は政府に摂取されていたので、僕の行動範囲も街にあわせてドーナツの形になっていた。そんな生活でも、僕は十分に楽しんでいたし、この汚れた街が僕に与えてくれるものに満足していた。
毎朝、朝6時に目が覚める。トーストに辛子とマーガリンを塗り、薄く切ったハムと大豆カスから合成したサニーレタスをはさみ、これだけはおそらく本物の筈のコーヒーにたっぷりと人工ミルクを混ぜてカフェオレボウルに注ぐ。朝ご飯を済ませるとさっと洗い物をし、シャワーを浴びてから、洗いざらしたシャツと肘のすり切れたジャケット、細身のパンツとデザートブーツを身につけて、僕は会社に向かう。
用水路に沿った通勤の道を僕は歩く。時折、キュウリのような匂いのする水をはね飛ばして魚が動くのが見える。魚達は何かに縛られたまま育ったかのように背骨をねじ曲げ、双頭や両性具有の個体ばかりが用水路を泳ぐ。
週末になると僕は女の子とデートをする。彼女は生まれつき目が見えないので、僕は彼女に今何を見ているかを細かく話してあげる。たとえばふつふつと煮えたぎるミルクで煮出したお茶がどれだけきめの細かい泡で覆われているか、とか、普段はぱっとしない店のテント地のひさしが、雨が降ったときにだけ見せる安っぽい美しさと哀しい感じとか。
すっかり冷えたほうじ茶を飲み干し、たくあんを囓りきっても、筆はいい勢いで滑っていく。あるとき、彼女に僕はねだられる。空が青いっていうのは本当なの?青くて美しい空って、どんなものなの?それを見ると悲しい気持ちも軽やかになるって、本に書いてあったけれど、あたしにそれを説明して頂戴。
僕は青い空を見たことが無い。濁った灰色の空が僕のお気に入りの空だし、くすんだ空気やごみごみした街並みと同じように、青くない空は僕を取り巻く当たり前の環境だった。しかし彼女はそんな事を求めているのではない。僕が求められているのは、青い空とそれがもたらす多幸感を彼女にわかりやすく説明することだ。
僕はめしいた彼女にいつまでも青空について説明できないでいる。彼女は寛容さを見せようと努力するが、そのうち焦れて不機嫌になる。そして杖をつきながら一人で帰ってしまう。
次の日、僕は気に入っていた街を出て、青空を探しに旅に出る。目つきの暗い男達が僕を追いかける。高度工業化に特化して統制された社会において、かつての美しい自然を追い求める行為は危険思想そのものであり、反乱分子なのである。結局僕は、人が住むことが叶わない永久凍土に逃れ、そこで青空を見ることが出来る。それは…
「…ってところまでプロットをまとめたんだけど、そこから先がどうも上手く進められなくてね」
湯飲みを下げに2階に上がってきたスナギモに、僕は苦笑しながら言う。
「主人公の人は、死んでしまうの?」
「そうだね、きっとそうなんだと思う。目の見えない彼女に伝えたい想いを胸に抱いたまま、彼は死んでしまうんだ」
「先生が思っている青空と、私が想像している青空は、きっと違うのね」唐突にスナギモが言う。
「そうだね。スナギモはいいことを言う」たまにこのあっけらかんとした女の子の鋭さに、舌を巻くことがある。僕が今まさに思っていたのは、スナギモに、主人公が最後に見た空の美しさを説明することは難しいだろうな、ということと、それは主人公が目の見えない女の子に対して抱く絶望感に似ているな、ということだったのだ。
先生、ご飯の用意が出来ましたけど、降りてこられます?と階段の下から小函さんが声をかける。はいー、と返事しながら、僕は万年筆のキャップを締める。まあいいや、プロットは出来たんだ。今夜は呑もう。