ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

中野隠れ家撤退

木下先生は段ボールに座ってコーヒーを飲んでいる。私はとりあえず持ってきたケーキをどこに置こうか周りを見渡したが、置けそうな場所が無い。
「あ、すみませんねお気遣い頂いちゃって」木下先生はそう言って段ボールを指した。
「どうしたの先生、この散らかりっぷりは」
スターリングラードの市街戦のあとみたいでしょう」
相変わらずよくわからない喩えである。怪訝な顔をしながら曖昧にうなずく。
「日常生活の痕跡が残っている混沌とした廃墟みたいな。あ、コム・シノワだ。涼音さん、神戸に行ったんですか」
「昼に戻ってきました」
「うーん、困りましたね。いただく場所がない。段ボールの上でいいですか。申し訳ないんだけど」
「しょうがないです。突然訪れたの私ですし」
「どうも甲斐性がない男の典型みたいなことになっちゃってるね」
「まあ、お気になさらず」
ここは中野の四畳半、木下先生の住処である。40も近いというのにこの人は学生みたいな生活をしていて、確かに先生のキャラクターに合っている、感じはする。昔学生の時に見た男友達の部屋そのものだ。いつまでたってもこの人は学生気分が抜けないのだ。
「先生、スランプは抜け…てないですね、その顔じゃ」
「その通り。むしろスランプを楽しんでしまっているくらいです。調子の出ない状況でいかに自分が自分らしくいられるかをじっくり考えると、それはそれで面白い」
そういって木下先生は笑った。
「この感じ、まるで90年代のイギリスの炭坑を舞台にした一連の映画のようです。リトル・ダンサーとか、フル・モンティとかね。ベースにはサッチャーが推し進めた規制緩和のしわ寄せを受けた庶民の苦しい生活があり、だから舞台上のストーリーが際だつ。そうそう、これ、いいですよ。お貸しします」
そうやって木下先生が段ボールから取り出したのは『ブラス!』という映画のDVDだった。埃が舞い立ってミルクレープの上に降り注ぐ。何て言うか、しょうがない人だ。もう少し何とかならんのかこの男は。だんだん腹が立ってくる。思わず綿矢りさの小説ばりに背中を(自粛)たくなった。
「あーもう、やめてください。せっかくのケーキが台無しです」
「そうでした。すみません」
「全く、どうなっているんだ木下未来は」
「ごらんの通りです。引っ越すんです。中野隠れ家撤退です」
木下先生はDVDをプレイヤーに入れると、チャプターを選んで再生した。

「これ、このストーリーのどん底のところで流れる曲なんです。穏やかで、ためた感情を暴力的にでなくコントロールしながら吐き出していく感じがいいんです。雄伏するときはそういう姿勢が大事なんだと思います」
「…」声がマジだった。私は思わず木下先生を見た。目が笑っていない。
「ちなみにこの映画、クライマックスの演奏の爆発具合がいいですよ。カタルシスかくあるべしってね。全くやられましたよ」
「…先生」
「涼音さん、楽しいことはあとからいくらでもやってきます。今は耐えるときです。さなぎの時代は、誰にでも訪れます」
「先生、私が何故ここに来たか知って…」
「まあ、大体想像はつきましたよ。最近の涼音さんのメールのテンションの低さったら無かったですからね。仕事がうまくいっていないんでしょう?それで相談したかったんですよねきっと」
「先生…」
そのとき時が止まり、私はさっき(自粛)ろうとした背中を思わず抱きしめた。本が満杯の段ボールがかすかにきしんだ音を立てた。
先生の背中は思ったより広く、そしてたくましかった。毛玉だらけのセーターの下で筋肉が動くのがわかる。木下先生は黙って私の腕を取り、優しく段ボールの上に座らせた。そして大きな左手を肩に乗せ、右手をうなじにm

 

「先生!なにやってるのですか。結局働いているの僕だけじゃないですか」
「悪いね中目黒君、引っ越しっていうキーワードからインスピレーションが湧いてしまってね。ちょっとメモをね」
「インスピレーションのメモってレベルじゃないですよ。なんですか『そのとき時が止まり』って」
「まあそういうもんだよ妄想って」
「これからのエロ展開がどう描写されるかが気になるところですが」
「そうだろう?」
「…自分で振っといてなんですけど、若干あきれ気味です。ところでこの涼音さんって誰です?先生の恋人ですか。稚拙なメモ書きの割には気になるキャラクターじゃないですか。いきなり背中を(自粛)りそうになるところとか、先生をフルネームで呼びすてるところとか」
「ふふん。私にも秘密の一つや二つあってもいいだろう?」
「だろう?じゃないですよ全く。ほらそこのテープ取って。今日のデートの資金、ホントに出してくれるのでしょうね」
「当然だ。私は独身貴族だよ」
「ただの貧乏貴族な気がしますが。帝政ロシア時代とかの」
「なんか言ったかい中目黒君」