ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

こんな夢を見た

アイ子は散歩が好きで、よく東京中を歩き回っては変な物を見つけてくる。だから四谷の四畳半で、すり切れた畳に新聞紙を広げて、足の爪を切っていたときに、アイ子がせききって話し始めた水中遊泳施設なるものも、ふーん、と生返事をしながら聞き流していたのだった。
「ちょっとぉ、ちゃんと聞いてよ」
頑固な親指の爪にヤスリを掛けながらふらりと目をやるとアイ子は僕を下から覗き込むようにして、目がつり上がって頬が紅潮している。唐突に目が合ったものだからアイ子はどぎまぎし、目線を下ろし、あ、今日の新聞。なんで古新聞敷かないのよぉ、と言った。
ふーん、と僕は言い直す。それで?面白いのそれ。ヤスリが爪の縁を逆なでしないように気をつけながら。
「面白いってか、感動する。感動だよ?」アイ子の目がまたつり上がる。
この舌っ足らずな勢い込んだしゃべり方が、どれだけ僕をノック・アウトしているか、アイ子は知っているだろうか。これをやられると、僕はアイ子に従わざるを得ないのである。
「ねね、行こうよ今から」
「え、だって準備は?」
「いらないんだって。みんな服着たまま入ってる」
「このまま入るの?」僕はアイ子を見る。膝丈のスリムパンツにシフォンチュニックのアイ子は、どう見たって着衣水泳をする雰囲気ではない。大体縄跳びだってままならない運動音痴なのだ。
そんなわけで、僕らは出かけることになった。短パンに薄手のシャツを着流した僕は、まるで近所のパチンコ屋に向かう風体の悪い兄さんだ。そこに小柄なアイ子がはしゃいで飛び回るものだから、何だか親戚の子供を連れて歩いているよう。
中央線に乗って、東京で山手線に乗り換えて、日暮里に向かった。駅を降りてしばらく歩くと、サビだらけの配管がむき出しの、陽に焼けた水色のコンクリートの建物があって、色あせた看板に、なおざりに水中遊泳施設、と書いてあった。僕の不安をよそに、アイ子は躊躇せずに僕を引っ張っていく。
施設内には僕らの他に誰もいなかった。ブーン、という軽いモーター音が響いている。屋内の真ん中には25メートルプールほどの広さの、水深が5mくらいの水槽がしつらえられていて、実験室のような雰囲気だ。天井がガラス張りになっていて、強い光が水面に射している。
僕がきょろきょろしているうちにアイ子はぺたぺたと水槽の際まで歩いていき、後ろ手に身体を支えながら、するり、と水の中に入る。覗き込むと、水槽の底から空気の細かい泡が立ち上っていて、そのために水中でも息が出来るようになっていることを僕は理解する。
水の中でアイ子がおいでおいでをするので、僕は意を決して、水の中に入った。水面から射し込む光が気泡を照らし、そこはまるでソーダ水の中だった。きらきらひかる泡の壁が幾重にも重なった回廊。アイ子はその間を縫いながらはじけるように笑っている。
パニックにならないように気をつけながら、冷たい水を鼻から吸い込む。肺に鈍い痛みを感じ、積極的に腹式呼吸をしないと苦しくなるが、なんとか水の中で呼吸が出来ることに気がつく。
底からの照り返しの光を受けて真っ青なアイ子は、ね?!という顔をして僕のまわりを泳ぐ。チュニックが揺れて彼女のボディラインをぼかす。
僕らは底から50センチくらいのところに、頭を上にして浮いている。気をつけの姿勢をたもったままふわふわとホバリングし、横に並ぶ。記念写真を撮るみたいに。たまに視線を交わしあって笑う。
そのうち、アイ子は、ね、見て見て、とジェスチュアして、背中の肩胛骨のあたりを軸にして何度も回転してみせる。何回転かをしたあとに、ね?と得意満面の顔をしてみせ、それからまたくるくると回転する。それを笑って見ながら、僕は悲しくなる。ああ、もうそろそろこの子と別れなければいけないんだ。無邪気なアイ子は永遠に成長しないのである。そして僕は歳をとる人間で、アイ子はそのことを知らない。涙が出てきたけれど、ここは水の中。