ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

中目黒君の月曜日。

僕自身は、木下先生みたいに朝が苦手ではない。だから朝は早く起きるし、一通り新聞に目を通し、株式市場などにも目配りしつつカフェオレボウル一杯のミルクコーヒーを飲んだりしながら、父さんと朝の会話をするくらいの余裕はいつもある。
でも今朝の話題は「民主党政権が今のところ自民党に対するカウンター政策しか打ち出していないことと、国民の政治リテラシーの無さの相乗効果が描き出す暗い未来」ていういささか月曜日の朝らしからぬシロモノで、僕は若干の疲労感を覚えつつ、晩ご飯を家で食べるか心配する母さんの声を背中に聞きながら玄関を出たのだった。全く、呉服問屋の番頭っていうのは、朝からなんてつまらない事を考えるのだろう。
狸穴の近くになると早出の生徒から挨拶をされる。このとき、明るく元気に返事するタイプの教師と、無表情に返事するタイプがいて、僕は断然後者だ。童顔の僕が前者をやると、たちどころにナメられるのだ。
学校についてから職員会議までに時間があったので、木下先生の部屋に行く。案の定、鍵が掛かっている。
先生は遅刻ぎりぎりを狙っていつも会議直前に現れる。なので、僕はマスターキーを使って中に入った。勝手知ったる部屋である。先生がキロ買いしているフレンチローストの豆は、何処かから拾ってきたらしいカメラ用の防湿庫に、OM4のボディとタグホイヤーのS/elの自動巻のクロノグラフと一緒に入っている。覗いてみると少なくなっている。今度買ってきてあげよう。
デロンギのグラインダーにコーヒー豆を入れてグラインドして、4杯分の濃くて熱いコーヒーを落とし終わる頃に、がたがたと音を立てて木下先生が入って来る。
「やや、なんと。コーヒーの香りだ」
木下先生は中学時代、あだ名が「フー・マンチュー」だったと言われているほどで、いつも一重のつり上がった目をしているのだけど、月曜の朝は一層つり上がっている。木下先生は朝が苦手だ。月曜の朝は特に。フォックスのこうもり傘をばさばさと振って辺り構わずに水を撥ねかせ、これもどこかから拾ってきたらしい皮のソファに投げ出す。その横に自分もばふん、と腰を下ろして木下先生は僕を初めて見た。
「ああ、中目黒君、おはよう」
「おはようございます木下先生。相変わらず見事なソフトランディングですね」
「君は朝っぱらから嫌みを言いに来たのか。山手線のダイヤが乱れまくっていたんだ。ささ、僕にもコーヒーを入れてくれ給えよ」
先生はそのまま、週末に持ち帰っていたらしい仕事の付箋を見ながら、todoの整理を始めた。仕事熱心なのか、それとも手際が悪いのか、今ひとつ読めない人だ。
「そういえば今日、所信表明だよね、やっと」
ここに来ても朝の父さんとの話の続きをするのは、僕はごめんだ。
「それよりも酒井法子の初公判の話が良いですね、先生」
「…随分とミーハーな思考になったもんだね君も、あ!」
「なんですか」
「防湿庫の豆、使ったろう」
「なんですか、いつも使ってるじゃないですか」
「あれ、いつものと違うの。ルアックコーヒーなんだ」
「え?なんですかそれ」
「ジャコウイタチがコーヒー豆を食って、種だけ消化せずに糞と一緒に排出するんだ。旨い豆しか食わないから、そのコーヒーも旨いって言われている。バリのコーヒーだよ」
「ええ?これウンコ豆なのですか」
「君はオタンチンか。三大珍コーヒーって言われている珍味なんだぜ」
「ま、飲むのには変わりないじゃないですか。さっさと飲んで職員会議に行きましょうよ」
「中目黒君、僕は職員会議出ないよ」
「何ゆっちゃってるのですか」
「あのなあ。この豆いくらすると思ってるんだ」
「高いんですか?」
「100グラム3000円」
「ふーん…えっ?」
「それに僕は非常勤講師だし、遅延証明も貰って来ちゃったので、今日はJRの神に感謝して、モーニングコーヒーを楽しむことにしようと思うんだが、中目黒君付き合わないかい?鳩山さんが何喋るか予測でもしながら」先生はにやにやしている。どうも月曜の木下先生はひねくれていて意地が悪い。
「僕今日は民主党の話をしたくないのですよ、家庭の事情で」嘘は言っていないつもりだ。
「君んちの呉服問屋はどういうシステムで動いてるんだ、中目黒君」