ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

レゲエのおっさんが連れていったもの。

月曜日のこと。
新宿東口「WAZA」で世知辛い会合に出席し、酔えないお酒を飲む。ここは野菜料理が売りなのだけど、突き出しのカリフラワーのムースが絶品で、思わず作り方を訊いてしまった。
多少癖のある、でも美味しいワインを数本空けて、好い具合に場が盛り上がったところでつつがなく解散。時刻は終電を告げていて、僕は綱渡りで板橋物置部屋に向かうこととなった。さて、今回の話はその途中、東武東上線車内から始まるのである。
「おい、にいちゃん」
一瞬頭をよぎった嫌な予感は的中して、そのおっさんが隣の車両からこちらに向かって歩いて来た時には、あぁ、やっぱりな、と半ば諦めて、むしろ友達を迎えるように、面倒くさい顔をして見せた。
「何よ」
「寒みぃな」
「当たり前だ。冬だからな」
「道理な。今日は特に冷える」腐った野菜の匂い漂うそのおっさんは、黄色い歯を見せて笑った。そして僕とおっさんの周りに出来た半径3メートルほどの空間−ATフィールド並みの排他力−を上手く展開しながら、するり、と僕の隣の席に座った。ふけのような粒子がおっさんから舞い上がり、BOSSのコートにマリンスノウのような堆積物を積もらせる。
何故か僕には、酔っぱらいに絡まれる傾向がある。普通に歩いているときに任侠の人に「なあ、世の中ってつらいことばかりだろぉ?そおだろぉ?」としつこく聞かれて、「そうだ。その通りだ」と応えたら「頑張れ兄ちゃん!」と肩をどやしつけられたこともあったし、年末にカレンダーの束を持った営業の、やっぱりメートルが上がった人に「これ、持ってって下さいよぉ」と倒れ込まれたこともある。そのときも路上で、しかもその営業は自転車に乗っていて、さらに警察が徒歩でこちらに向かって歩いてきているところだったので、何故か何も悪くない僕はどきどきした。あと目白通りの車道脇に女の子が寝ていて、これは多少のスケベ心も手伝って「もしもし」と起こしてあげたら「あによお!」と振り払われ、そのままだと轢かれて死にそうだったので強引に抱えて起こしたら阪神ファンで、いかに金本が漢かという話を延々聞かされながらその子の友達の家まで送り届けさせられたこともある。最後のは絡まれたというのとは、ちょっと違うけど。
「にいちゃん、俺ァな、西から来たんだ」
「どこだって?」
「西だニ・シ。鹿児島の生まれよ」
「鹿児島だったら、こんな寒いこともなかろうに」
「いや、寒みぃ。知覧って知ってるか」
「ああ、特攻の基地のあった」
「おうよ」
「おっさん、帰らねえの」
「ああ。知覧は遠い」
「そうだな」
「池袋の方が全然凌ぎやすいぜ。酒は飲めるしな」
「そうなん?おっさんご機嫌だな」
「おい、飲まねえか」
「駄目だ。今日は息子の誕生日でね」僕は嘘をつく。
「こんな遅くにか。悪りぃ父ちゃんだな」
「ああ、だから急いで帰らないと」
「子供、何人いるんだ」
「4人。一番上は18で、来年は合格すれば大学生だ。一番チビは10歳で、野球にはまってる。全員男だぜ」
「4人、男の子か」
おっさんはそのとき、遠い目をした。
「俺にも昔、女が居てな。子供もいる」
「何処にいるんだ、子供と奥さん」
「大阪。岸和田って、知ってるか」
だんじりの」
「…そこに、女と子供がいる。野郎ばかり3人だ」
「年の瀬には帰るのか」
「いや、帰らねぇ。ま、色々あってな。帰れねぇんだ」
「何、色々って」
「借金とぉ、えー借金、それから、借金」
「それで、池袋で酒飲んでるのか。だらしねぇな」
「池袋だけじゃねぇ。中板橋でもだ。お、着いた」
おっさんは立ち上がる。舞い上がるスノウフレーク。
「にいちゃん、アンタいい奴だ。子供によろしくな」
「ああ、おっさんも風邪引かねえように」
「4人、全員男か」おっさんはつぶやいて、降りていく。ATフィールドが解かれる。
帰る道すがら、僕は想う。おっさんの中だけにいる、僕の4人の子供達を。夜空は澄み渡り、星が目に痛い。そろそろ双子座流星群が見える頃だ。