ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

中目黒君の放浪。

土曜日の銀座は人で一杯だった。
金曜日の夜にやっと取り付けた食事の約束。どこがいい?と中目黒が訊くと、じゃあサルバトーレで、と彼女が応えた様子が思いの外明るく愉しそうだったのに気をよくして、食事が終わる頃にはもう少し前向きな雰囲気に二人が包まれているのじゃないか、なんて、楽天的妄想をふくらませながら夕方の山手線に揺られて有楽町に向かう。
待ち合わせに遅れてくるのは折り込み済み。仕事が忙しい彼女は職場から駆け足でやってきて、ひとしきり愚痴っぽい近況報告を喋る。イサキのアクアパッツァとチーズの盛り合わせ。アーティチョークの入ったパスタと、それからキノコのピッツァ(モンテクリストってどういう名前の付け方?)。塩っぽい味付けばかりのチョイスになっちゃったね、と喋りながら二人で料理をつつく。
最初はかみあっていた会話が段々とずれていき、彼女が目を合わさなくなったのに気がついたのは、白目が濁っていないんだな、と中目黒が感心しながら瞳を覗き込んでいたときだった。僕は阿呆だ、と中目黒は思った。会計のタイミングも給仕の順番も、めちゃめちゃなままで食事は終わり、外に出ると雨が降っている。数寄屋橋の交差点で別れて家に向かいながら、中目黒は情けない気分になった。両隣の席が愉しそうだったのがそれに拍車をかける。
「ずいぶんとしおれてるじゃないか中目黒君」
電話に出た木下先生は、なんか僕駄目みたいです、という中目黒の言葉にうれしそうな声を出す。このサディスト。慰めて貰おうとちょっとでも思った僕が憎たらしい。
「なんでこんなことになっちゃったのか、上手くまとめられないのです自分の中でも」
「そりゃあ、さ」すでに酔っているらしい木下先生は上機嫌だ。
「中目黒君、相手に迎合しすぎなんだよ。自分のペースにはならなかったんだろ」
「そうですけど」
髪にかかる雨を鬱陶しく思いながら、中目黒は続ける。
「でも、僕が入り込むきっかけってなかったような気がする」
「てことはさ」
「はい」
「ずーっと彼女、自分の話ばかりしてたの」
「そうです」
「で、中目黒君はそれを聞いてたと」
「はい。気持ちよさそうに喋ってましたよ彼女」
「でも最後はつまらなさそうだったんだろ?で、メシ代は奢ったと」
「はい」
「中目黒君」
「はい?」
「バカだな中目黒君」
「今話しながらそーかもなって思い始めたところです」
「ふむ。どうもいかんね」
「そりゃ僕だって彼女の耳目を抜くようなすごい冒険譚でも話せればよかったですよ。でも先生だって知っているとおり、僕の日常なんて淡々としたものです。周りには中年のおっさんばっかりだし」
「そうじゃないんだ中目黒君。別にすごい話をすればいいわけじゃなくて、彼女の話の中から共通の感覚を見つけられるかってことなんじゃないの?それに共感してあげたり、自分の意見を言ったりとかで会話は繋がるわけで。つまりさ、ホスピタリティの問題なんだと思うよ」
「先生」
「なにさ」
「ホスピタリティって言葉、先生から聞くとは思いませんでしたよ」
そのまま電話を切り、ため息をつくと、歩いて神田まで帰った。雨は細かい針のように中目黒に降り注ぎ続けた。東京は梅雨まっただ中である。