ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

土曜日のタマネギ


土曜日の夜である。
16号館の屋上で、佐東ひなたはヘッドホンでオールドファッションな音楽を聴いている。木下先生が好きな昭和アイドル歌謡。あのひとがポニーテールにやられるといったのも、確かこのアイドルがその髪型を流行らせたからではなかったか。どうせ今日も木下先生は中目黒先生と教員漫談でも繰り広げているんだろう。そう思うと少しだけ笑えたのが自分でも意外だった。
安全のためと称した自殺者対策で、キャンパス内の校舎は屋上に出られないよう施錠されている。でもちょっとしたコツがあって、16号館の屋上に出るのはそう難しいことではない。夜になり、夏の熱気をたっぷりと吸った防水被覆がやっと冷やされて、ぬるい空気が新宿の方向に流れ出す。歌舞伎町方面の空がぼうっと光っているのは、ネオンのせいだ。あの極彩色に照らされた水蒸気の固まりをみると、クレーの「ボルの上の雲」を思い出す。
さっき少し泣いたせいで、鼻の奥にプールから上がった後のような違和感がある。まぶたも腫れている。この夏は最低だ。夏の血の重さが心地よい時もあったけど、今は本当に、自分の身体が鬱陶しい。もっと軽く、もっとなめらかな別のものに置き換わったらいいのに。洗ったばかりのような顔を伏せるのが屈辱的な気がしたので、意識して特徴的にとがったあごを持ち上げ気味にする。涼しい風がそのとき額を吹き抜けて、ひなたの重たい気持ちが少しだけ、楽になる。
恋、にすら、ならなかった。
仲の良い友達だと思っていた、同じサークルの男子だった。短髪が似合う、白い歯の印象的な男の子。6月に一緒に美術館に行って、ロダンの「地獄の門」の前で故郷の話を目を細めて語った、その純朴な感じが好きだったんだ。川の向こうとこちらにあるお寺で、順番に開かれる日曜学校。そのお寺に奉納されていた地獄絵図が怖かったこと。夏には地蔵盆があってお祭りをすること。近所の仲間が大勢集まって遊び回った後、農家の大広間で昼寝をすること。屈託のない、スポーツが大好きな、地域に愛されて育った典型的な健全な男子。転校を繰り返し、友人関係も家族関係も屈折して育ったひなたには無いものだらけの、彼の綺麗な個人空間。あまり綺麗すぎて、反発を覚えるほど憎らしかったし、爪を立ててみたいと思ったし、それでいて愛しかった。
夏休みで帰省してしまう彼に、どういう形か決めきれないまま想いを伝えようと思っていた。そうしたら彼はひなたを避けるようになった。ほんの数週間前まで兄弟みたいに仲良く遊んでいたのに。
そして今日、学内のカフェで、彼が真剣な顔をして見つめている女性がいることに、気づいてしまった。ひなたに見られていることに気がついた彼は、険しい顔をしてふいっと席を立った。半袖の白いシャツが残像を残した。
あの高揚感、駆けていく感じ、飛びついて抱きしめて、全部がくっついて溶けて離れなくなってしまえばいいのにと思っていた、私の想いはどこに行ってしまうのだろう。根を張った想いが強引に剥がされると、見えない傷を残す。また涙が出そうになって、ちょっとためらい、それから、思い切り泣くことにした。そうしたら大して涙は出なかった。
電話を取りだして、中目黒先生に掛ける。しばらく呼び出し音が続いた後、がやついた騒音とともに中目黒先生の声が飛び込んできた。
「もしもし、中目黒先生?」
「ああー佐東君?どうしたのですか土曜日に」
「いいえ特に用事はないのですけど、木下先生といらっしゃるのじゃないかな、と思って」
「よくわかりましたね。今『海と』で呑んでるのですけど」
「やっぱり」
「替わりますか?だいぶ出来上がっちゃってますけど木下先生」
「結構です。またご連絡します」
返事を待たずに切った。まったく、あの二人はマンネリを愛する馬鹿だ。少しは傷ついてみろ、アタシみたいに。