ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

中目黒君の脱力。

馬場崎の家に中目黒が招かれたのは、11月も終わりの週末だった。ドアを開けたのは久里子である。クリーム地に紺のペイズリー柄のチャイナドレスをまとった久里子は、馬場崎仕事で呼び出されちゃったんだけど、ゆっくりしていってねと云いながら中目黒を招き入れた。
「中目黒君、アールグレイ好き?っていうかもう入れちゃったけど」
「ありがとうございます久里子さん」
久里子は中目黒の前に紅茶を置いて、自分の分にはコアントローを垂らした。
「あ、それ」
「なに?」
「それ、木下先生もやっていたのを思い出したんです」
「そ。仲間内では結構流行ったわ。木下発のヒットがまれにあるのよ。ワイルドターキーを暖かいコーヒーで割る、木下スペシャルって言う変な飲み物とかね。確かオレンジピールを振るんだったと思ったけど」
雨の馬場崎邸の居間である。湿った空気がかすかに流れている中で、久里子と中目黒は差し障りのない世間話をしながら、紅茶をすすった。
ひと段落してから、久里子が切り出した。
「中目黒君、痩せたかな」
「ええ、少しね。恥ずかしい話です」
「でも、恋煩いなんて、ロマンチストよね中目黒君。ちょっとさ、話してご覧よお姉さんに」
中目黒は庭に目をやった。殺風景な雑草が生える庭には、日時計が据え付けられている。陽が射さない今日は時間を指す陰は伸びていなくて、雨に濡れたそれは所在なさげだ。
「この間まではあまり前に進めない考えばかりしていたんです。何故僕は彼女を好きになっちゃったのか、とか」
唐突すぎる語り出しに、若干どもり気味になりながら、中目黒は話し始めた。
「でもね、木下先生に言われたのです。僕は好きになるっていう選択をすでにしてしまったのだって。確かにそうなのです。だから、そんな問いは無意味ですよね、好きになってしまってからそれについて否定的な解釈を誘導するみたいなことは。木下先生曰く『ルビコン川を知らないうちに越えていたカエサル』なんですって僕は」
「あはは。木下らしい」
「そうなったら、もう戦うしかないんです。負けないというベクトルで。負けることを前提に、戦う人間は馬鹿です。すでに負けていたとしても最善の戦いをするべきなんでしょう。そこまで考えたらあまり逡巡しなくなりました」
「ふーん。中目黒君さ」
「なんですか」
結構、格好良いよ中目黒君。って云おうとして、久里子は懐かしい思いに駆られた。昔馬場崎と木下と、3人で繁く会っていたときに馬場崎にたしなめられたことを思い出したからだ。久里子、お前簡単に自分目線の発言をするんだな、と馬場崎はつっけんどんに言った。失恋して、真剣に思い悩む木下に、久里子が半ば慰め気味に、半ば場の空気を換えるつもりで、木下格好良いよ、あたしきゅんとした、と口にしたことに対して。
あたしも大人になったもんだわ、と思いながら、久里子は言葉を選んだ。
「がんばりな。中目黒君。あたし応援するよ」
「…ありがとうございます。そんな風にいわれるとは思わなかったな」