ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

こんな夢を見た。

「ああ、梨元さんね」
不二はパスタに絡まりきらなかったアンチョビを器用にフォークですくいながら、ため息混じりに言った。
「何だか、ちょっとおかしくなっちゃったのよね」
ここは帝建の入るビルの公開空地を見下ろす「アルル・バッジオ」というリストランテで、僕らは昼休みの休憩中だ。不二と僕はよくここで大盛りのパスタを食べる。不二はお行儀悪く、フォークで窓の外を指した。「ほらあれ。何やっているんだろうなぁ梨元さん」
「夏が暑すぎたのかな」
「ひょっとして、新しい水着を着てみたいとか。こないだ買ったって言ってたし」
「何それ」
フォークの先には白く乾いたタイル張りの広場があり、そこには大きな金だらいが置いてある。そこに、重そうなバケツを持った梨元さんがせかせかと歩いてきて、たらいの中に水を空けた。梨元さんは額をぬぐって、ちょっと空を仰ぎ、それから空のバケツを持ち上げて隣接する区民センターにぱたぱたと走っていく。
「ほら、何だかあれみたいじゃない?んー、子供用のプールみたいな」
「行水するってか」
「そう」
「梨元さんが?あそこで?」
「暑いからね」
「お前、馬鹿じゃないの」
梨元さんは、ちょっと深田恭子に似た可愛い子で、いつも結婚式の二次会に出席するみたいな、ステキな服を着ている。何となく素っ頓狂な感じもするんだけれど、結構人気がある。その梨元さんが仕事をほっぽり出して、大きなたらいを持ち出して水を汲みだしたのが昨日のこと。誰もがその剣幕というか、勢いに気圧されて止められずにいる。
「そういえばさ、チケット取った?」
「いや、今日取りに行こうと思っているんだけれど」
「じゃあ後で一緒に行こうよ。放課後」
「オッケー」
異常気象の東京はもう人間が住める状態ではなく、地域ブロックごとに移住する計画が最終段階にさしかかっていた。チケットは、何処に向かうかが示された旅券兼通行手形で、それを持っていれば交通機関を無料で利用して指定された場所まで行くことが出来る。
仕事が終わって、不二と待ち合わせて区民センターに向かう。陽が落ちて気温が下がってきたとはいえ、日中、燃え立つ太陽に熱せられた地面からは余熱が立ち上り、空には赤い月が揺らいでいる。広場にはやっぱりたらいがあって、近づくと、丁度梨元さんが何度目かの水を注ぎ終えて一息ついているところだった。こちらに気がついた梨元さんは、「木下君、不二さん。こんにちは」と笑って手を振った。
「梨元さん、何やってんの?」
「ああ、地球が今大変でしょ?ちょっとでも水を蓄えておこうと思って」
「そうなんだ、手伝おうか」
「いいの。これはあたしの仕事なの。あたしに課せられた使命なの」
「そうなの?大変ね」と不二。
「ううん、大丈夫よ。間に合わせなければいけないけれど、まあ何とかなるわ」
そう言う梨元さんの顔は真剣そのもので、僕らも何となく力んでしまった。
「頑張ってね、梨元さん」
「うん、頑張る」
じゃあね、といって梨元さんはバケツを下げて小走りに水場の方に行き、僕らはチケットの発券待ちの列に並んだ。僕らの前の集団はサンダル履きのヤンキー風の集団で、やたらと互いにこづきあっては黄色い嬌声を上げる。そのうちの一人が梨元さんを指さして言った。
「なにあのおばさん、何で水なんて汲んでんの?」
「ショートパンツは厳しいよなー、あはは」
僕は何か言おうと思ったけれど、黙っていた。
その集団は、身分証明書の不所持でチケットを受け取れなかった。不満顔で立ち去ろうとする彼らのうち、一人の女が、通り過ぎざま梨元さんを押しのけた。そして半分ほど水が溜まったたらいに手をかけた。
梨元さんはショックを受けたカエルみたいに立ち上がった。
「ねえ、やめてねえ、それは大事な水なの。みんなのために必要な水なのねえそれに触らないでお願いやめてよねえ、お願いですからやめてくださいお願いお願い…」
女は梨元さんをみてふん、と鼻を鳴らし、おもむろにたらいを傾けてひっくり返した。しぶきを上げて水が飛び散り、広場を湿らせ、やがて地面に吸い込まれて消えた。梨元さんは顔を手で覆って座り込んだ。
僕は梨元さんに近づいた。梨元さんは肩を小さく震わせていた。
「梨元さん」
「…」
僕は梨元さんの肩に手を置いた。
「梨元さん」
「…」
「梨元さん、ご飯食べに行こうよ。とりあえず」
「…うん」
梨元さんは力なく立ち上がった。不二が黙って、梨元さんの肩を抱いた。
「さ、行こう」
僕らは駅の近くのお粥屋さんに歩いていった。薄い塩味のついたお粥は、遠いアジアの国の香りがした。