ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

チェリッシュ。

身体を拘束していた土砂が流れると、久しぶりに機械は動けるようになった。左腕のアクチュエーターと、右足のダンパーがおかしくなって、移動するときは変なリズムがつくようになっていた。
市松模様のタイルが敷き詰められた袋小路に、その機械はいた。かつて、機械はそこで待つように言われ、犬のように忠実にその言いつけを守ってきたのだった。
機械がうずくまる袋小路に、老人がやってきた。11月のある晴れた日の午後だった。老人は売れそうながらくたを探していた。表通り沿いの店は破壊し尽くされているので、裏通りの方がまだ掘り出し物を見つける可能性があった。
ここは町田、崩れかけたビルは、かつて東急百貨店だった。昨日降った雨がコンクリートの割れ目からしたたり落ちる一角で、流れる水に洗われてタイル面が綺麗に光るのが見え、老人はそこが路地の入り口になっていることに気がついた。以前はがれきと土砂でここまで近づけなかったが、昨日の雨が土砂を洗い流し、古い地面をむき出させたようだった。洗われた土砂は一段低い駅前広場に流れ下っていた。
薄く泥が覆ったタイル面に足を取られそうになり、老人は舌打ちした。そして路地の奥に機械を見つけてどきっとした。人型のそれは子供のようで、マネキンかと思った瞬間にそれが動いたのでもっとびっくりし、慌てて逃げようとし、今度は転んでしたたかに腰を打った。その姿勢のまま、老人は出口の方まで後ずさろうとした。子供のなりをしたアンドロイドに、放射線を発生させるダーティーボックスを積んで、シェルターに送り込むトラップが跋扈した時代があったからだ。
しかしまてよ、この機械は様子が全然違う。機構が古すぎる。人工筋肉こそつけているものの、一部は鉄らしい金属を使ったフレームがむき出していて、とてもトラップに使えるシロモノではない。しかも機械は老人を見て、表情を作るワイヤーをきしませた。どうやら笑っているらしい。薄気味が悪いが、このアンドロイドが何をしているのか興味がある。老人は思った。相手が機械であっても、笑いかけられたことなど、本当に久しぶりだ。どうせ私だって長くは生きられない。この変な機械がトラップだろうがそうでなかろうが、たいした違いはない。それにちょっと様子がおかしい。機械はぎくぎくと不自由な足を動かしながらこちらに向かって身体を向け、話しかけたのだ。喋るアンドロイドなど、しばらくお目にかかっていない。
「いらっしゃい」
「めずらしい型だな。何している、こんなところで。お前、軍の所属じゃないのか。それともトラップか」
「グンノショゾク?トラップ?あたし、そんなヒトじゃありません。あたしはアイコっていう」
「なんだ、愛玩用か。家族とはぐれたか」
「アイガンヨウ?それもあたしの名前じゃない。アイコだよ、あたし」
機械はさあさあ、といって袋小路の奥に置いてあった座布団をはたいて見せ、何のおかまいもできませんけどドーゾ、といって老人を座らせ、そしてよろけながら欠けた茶碗に水を汲んで出した。慣れてみると、機械の動作はいちいち家のなかで母親が見せる仕草の模倣のようだ。
「変わった奴だ。お前、えーと、アイコか。アイコは何をしている」
「アイコはね、遊んだり覚えたりするのが仕事です。いろいろなことをたくさん覚えて、みんなと仲良くする。たくさんしゃべって、ながくしゃべる。それがあたしの仕事だって、クリコ先生は言ってた」
「クリコ先生?近くにいるのか、その人は」
「クリコ先生は世田谷区に住んでる」
「おいおい、世田谷なんてもう無いぞ」
世田谷は爆心からそう遠くなく、23区の中で真っ先に人が住めなくなった区のひとつだ。それももう20年以上前の話である。
「世田谷が無い?それはよくわからない話です。世田谷にはクリコ先生がいて、四谷から新宿まで出て、小田急線に乗り換えて行くのよ。そうすればあなたも世田谷に行ける。でも小田急線が動かなくなって、世田谷に行けなくなっちゃった」
老人はため息をついた。
「アイコは、いつからここにいる」
「ずっと前よ。パートナーさんが、ちょっとここで待っててね、って言ったの。東急にお買い物だったのよ。あと、ハンズに寄ってルッコラを育てるプランターを買うことになっていて、だけどパートナーさんが戻ってこなくて、小田急線も止まっちゃって、だからあたし仕方なくひとりでハンズに行ったの。それでプランターを買おうと思ったら、どれでも持っていっていいっていわれたの。それどころじゃないからって」
は−、ながくしゃべった、と言って、機械はまたワイヤーをきしませた。顔の半分はふっくらした少女の顔が残っていて、そちらから見ると微笑んだ顔に見える。機械は値札が付いたままのプランターを撫でて、ルッコラを育てるのが楽しみです、と言った。
この機械は高価な趣味として作られたのだろうか。古びているとはいえ、薄く華奢なフレームは奇妙に凝った形をしているし、見たこともない小型のアクチュエーターが搭載されていて、工芸品並みに丁寧に作り込まれている。マスプロダクツの感じがしないし、商標もついていない。老人は、機械の顔面が子供に見える側に身体を動かして、話しかけた。
「アイコは、パートナーさんを待っているのか」
「そう、パートナーさんはお父さんとお母さんで、ここで待つようにって言っていたから」
「もしかしたら」老人は言った。そして、パートナーさんはもう来ないかも知れないよ、という言葉を飲み込んだ。新宿に新型の爆弾が投下されて、世田谷あたりまでは放射線の影響で全生物の83%が死滅したんだよ。その次の月、ここ町田にも爆弾が落ちて、JR横浜線小田急線もそのとき以来動いていない。もう23年前の話だ。そんな知識が自分の言葉で、このアンドロイドに記録されるのは何となく気が引けた。
「もしかしたら、何?」
「パートナーさんは、アイコがルッコラを育てながら待っていたら喜ぶかも知れないよ」
「そうかな?」機械はぱっと表情を明るくした。「でもルッコラの種がない」
「僕のルッコラの種をあげよう」老人はポケットから種を取り出した。それは大豆だった。老人の行動食である。機械の目が丸く見開かれ、つり上がった。子供の表情である。口まで半開きになっている。機械はうれしそうに、「ありがとう」と言った。
「でも植えるのは春まで待つんだ。いいね」
「春っていつ?」
「今から大体半年過ぎたら、春が来ると思う。4月くらい。150日くらい後だね」
「そう。そんなに待つの?ねえ、そのときになったら一緒に植えようよ」
「いや、僕はそのときこの町にいないかもしれないからね。いいかい、良く覚えておおきよ。最初に大きな石をプランターの底に並べて、次に小石を敷き詰める。それから黒くて湿った、ぽろぽろした土をプランターの縁から5センチくらいまで入れるんだ。種は植える前に一日くらい水に浸して、あまりくっつかないように土の上に撒くんだ。鳥に食べられないように気をつけてね。1日に1回、優しく水をあげる。そして日光をたっぷり浴びせてあげること」
「わかった」
「パートナーさんが、はやく来るといいね」
「そうね、そして小田急線が動いて、あたしは四谷に帰るの」
機械相手に何をやっているんだ、と思いながら、老人は精一杯微笑んだ。
この機械はこれから何年も、ここでパートナーさんと呼ばれた男女を待つのだろう。祈ったりするのだろうか?その祈りを聞き届けてくれる神はいるだろうか。
それじゃ元気でねと手を振って、老人は市松模様のタイルの路地を歩き出した。機械は時々転びながら、袋小路の出口まで出てきた。そしていつまでも老人に手を振り続けた。