ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

チョコレイト同盟。

円高が進んだ次の週明けには、必ず中央線のダイヤが乱れる。誰が言ったか知らないが、ドル円が15年ぶりの高値を更新した月曜日、案の定人身事故が起こった西荻窪のホームは立ち往生した通勤客でごった返していた。
ゼミは今日はない。教務の呼び出しも就職報告だし、大した緊急性はないし、と佐東ひなた売店でスポーツ新聞を買い、高みの見物を決め込む。森永のビン牛乳とハムサンド(レタスが乾いてぱさぱさしていて、ハムがぼそぼそしている)で朝食を摂りながら、野球の結果を見ると、巨人が中日にボロ負けしていた。スキンヘッドの監督が薄笑いを浮かべる写真がトップだ。
「見ちゃったオレ。バケツに一杯内臓とか、腕とか入ってんの」数人の高校生がバッグをぶらぶらさせてたむろしている。そのうちのひとりが興奮気味に話しているのが、「冬にスタミナ!水着ギャルと行く美味しいチゲ鍋のお店レポート」を読んでいるひなたにも聞こえてくる。うんざりして、スポーツ新聞をたたむ。
何に悲観したのか知らないが、死んで内臓を白日の下に晒し、それをバケツに放り込ませ、内臓の脇に腕を差し込ませ、それを高校生に見せるなんて、どう考えてもまともじゃない。
てんでに会社や取引先と連絡を取っているサラリーマン達を見ながら、あたしも来年はあの群れが形作るまともじゃないシステムのパーツになるんだ、と我知らず身体を震わせた。
今まで色々なものに守られてきた。こうやってベンチにあぐらをかいて、苛立つ通勤客を後目にスポーツ新聞を読むなんていう傲慢も、言い寄る男を袖にする冷徹も、大学生っていう肩書きの繭に守られるモラトリアムの時期だからできる特別待遇のアトラクションなんじゃないか。繭の外に踏み出せば、容赦ない現実が襲ってくる。円高を苦にして中央線にダイブせざるをえない、みたいな、狂った、だけど否定できない現実が。あたしは、自分の柔らかい部分を切り売りし、段々硬くてごわごわした手触りの、乾いた女になるような気がする。
食後に甘いものが食べたくなって、トートバッグを探ると、チロルチョコが出てきた。チョコレートを見るとあの部屋を思い出す。高校の校舎の中とは思えない、ジャンクなものに溢れた部屋。耐熱ガラスのメジャーで飲むいい香りのコーヒー。「青臭くて不完全で、ちっちゃいプライドを守って大事なことを蔑ろにする青春時代の、どこがいいんですか。不毛。全く不毛」とうそぶく万年モラトリアムの自称ナイスミドルが巣くう旧校舎の1階。不思議と居心地がよく、うるさがられたり煙たがられたりしながら友達と連れ立ってお邪魔しては長時間過ごした。いたずらのつもりで、ひなたの誕生日である3月14日にプレゼントがもらえるよう、バレンタインには友達とつるんでチョコレートを届けた。「生徒とゾーシューワイ関係を結ぶわけには行きません」とか言ってなかなか受け取ってもらえずに、中目黒先生に届けてもらったりしたっけ。
人の密度が減り始めたホームに、先ほどの高校生のうちの一人がダストボックス脇の柱にもたれてたたずんでいる。巻き毛の下に覗く鹿みたいな顔が青白く見える。
読み終わったスポーツ新聞をダストボックスに入れながら、ひなたは声をかけた。
「大丈夫?」
「ちょっと落ち着きました」
「事故、見ちゃったの?」
「…あまり見るもんじゃないですね。肝臓に入っていたヒビとか、もうひどくて」
ショックを受けていそうな割には、するりと生々しいことを言ってのける、その違和感に、ひなたは顔を覗き込んだ。瞳を見据えられて高校生は照れたような、まぶしいような表情をして見せた。産毛が光っている。端正な顔立ちの子だ。
そういう顔してなさい。自分を疑いたくなるような、むき出しのえげつないものを見ることはないよ。もっといいもの、綺麗なものを見て育った方がいい。君はまだ、守られるべき存在なんだ。という、心に浮かんできた言葉は高校生に向けたものなのか、それとも自分がかけられたいのか、と思いながら、ひなたはバッグからチロルチョコを出して「はいこれ」と渡した。高校生は案外すんなりと受け取って、ありがとう、と言った。
「でも、今は食べる気分じゃないです」
「いいのよ、チョコレートを届けて幸せになる同盟のひとだから、あたし」
「チョコレートを届けて幸せになる同盟?」
「そう。君くらいのときに友達と結成したの。チョコレイト同盟」
じゃあね、と挨拶し、やっと動き出したらしい電車に向かって、ひなたは歩き出す。人の流れの中に身を投じて、オレンジ色の車体に乱暴に押し込められながら想像する。来年乗る電車も、きっとこんな風な混み具合なんだろう。1年歳をとって、居場所が変わるだけ。あたしも変わるだろう。でも、また木下先生の部屋には行ってみよう。チョコレートを持って。