ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

チェイン・ブレイカー。

曇り空から晴れ間が覗く日曜日の秩父である。
9時前には警察が交通封鎖をした県道に、カテゴリー毎にライダーが集まり始めたころ、スタート地点から少し離れた荷物の集積所にひとりの男がいた。傍らには後輪の潰れた自転車。2トントラックの荷台には参加者のバッグがうずたかく積み上げられていて、男はそこから自分の荷物が見つけられないか目を凝らしていたのだった。
男が焦り気味についた手の直ぐ脇、荷台の手前に見覚えのある白いバッグを発見、男は「らっきー!」と思わず声をあげ、係員を苦笑させた。手早くバッグの中から緊急用に用意してあったチューブ*1を取り出してホイールにセットし、ああこの音間抜けだな、と思いつつインフレータをカコカコいわせながら膨らませる。緊急用のチューブサイズは1.5、1.25のタイヤと合うかどうか微妙だが、この際贅沢は言えない。
シーズン一番最後のヒルクライムレース、初出場である。ここまできて出走取り止めなんてしたくない。例え前日お祓いと称した飲み会で男を含むチームメンバーが全員二日酔いになっているとしても、だ。
男は急いでタイヤをフレームに取り付け、荷物を預けなおしてからスタート地点を通り過ぎてトランスポーターに戻り、ウォーマーを脱ぎ捨てる。今度はエアポンプでエアを追加する。カンカンに硬くなるように。少しでも抵抗が減るように。幸い、ビードが外れる気配はない。
所定位置に立ったのは、時間ギリギリである。なーにをドタバタやっているんだ、といいたげな周囲の視線が痛い。痛がっているのは不肖木下未来、僕である。
「何やってたの木下」と、TREKのフレームにまたがってストレッチしながら話しかけて来たのは春山さん。昨日の酒となかなか抜けない風邪のせいで、普段より20も心拍数が高い中の参加である。
「いや参っちゃってさ。スタート直前にパンクするかな普通」
「あんだけメンテに力入れてたのに。不吉な」春山さんはニヤリとする。この人、自分だけ低コンディションなのが寂しいのだ。
チェーンのコマひとつひとつが輝くくらいに洗浄し、保安部品を取り去った青猫は、一丁前の面構えでスタートラインに並んではいるが、他のカーボンやアルミのバイクと比べれば素性の違い*2は一目瞭然である。この重たい車体で仕掛けるとすれば、超ローギアでハイ・ケイデンス勝負をするか、一瞬だけある下り区間ダウンヒル競争するか、くらいしかない。まあいい、今回は順位より完走だ。そう思っているうちに出走アナウンスが聞こえ、最後尾スタートの春山さんと僕は合言葉を言いあった。
「抜いても抜かれるな」
「抜いても抜かれるな」
直後、二人は別々にこちらに後ろを向けている1000台の色とりどりのバイクからなる群れに取り付いた。
頭の中のBGMはLUNATIC CALMの"leave you far behind"である。なんて不遜な(笑)。

最初の平面区間は皆飛ばし気味で、春山さんは直ぐ前の群れに飲み込まれて見えなくなった。ケイデンス100、心拍数140。曲がりくねった細い道を、原色のウェアを着た選手達が一本の筋になってうねるように走り抜ける。通勤と変わらないペースで、脚を残すことを考えながらポジションをキープする。
鳥居をくぐる右コーナーが見え、ここからが本格的な坂道である。1台づつ、着実にちぎっていく作業に入ることにし、フロントを1段落とそうとしたら、いくらバーコンを動かしても変速の手応えがない。
「使えねぇ…」思わず声を出す。
ディレイラーのスプリングが折れた。このトラブルは2度目である。僕は舌打ちして、altimeterのスイッチを切り替える。この際、傾斜が判ったところでめげるだけだ。ケイデンスと心拍数だけで後ろ9枚のスプロケを使って変速をコントロールすることにする。
民家の軒先、柿が綺麗に色づく細い道で子供が手を振っているのにゆがんだ笑顔を投げかけつつ、8枚目までギヤを落とし、ぐいぐいと坂を登…れればいいのだけれど、呼吸音ばかりが響く僕の軌跡は波打って遅々として進まない。走馬燈のように流れる今までの人生の不摂生を逐一呪いながら、ひたすらペダルを漕ぎ倒す。日々積み上げたビールの空き缶やら(merde!)、美味しい中華料理やら(merde!!)、昨日舌鼓を打ったキノコ汁やら(merde!!!)、それを肴に大量に転がした武甲の徳利やら(merde!!!!!)、すべてを唾棄して神に謝りながら足を踏ん張る。どうか、どうか神さま、今一度筋肉の中の乳酸を散らし、肺活量を大きくし、脂肪を無くし、もっと素早く、もっと軽々と山を登らせ給え。僕を縛り付けるすべてのチェインを引きちぎって、もっと次の場所に行ける力をちょうだい神さま。最後の力を振り絞って神殿を壊したサムソンの祈りってこんな気分だったんだろうか。
「木下さぁん」
祈る僕の真剣さをくじくように、情けない声がかかる。2クラス若いカテゴリーにエントリーした利根田君がよろよろと脇を走っている。カテゴリー毎に3分の時間差スタートなので、利根田君がアドバンテージで持っていた6分の差を詰めたことになる。
「どしたん利根田君」
「足が攣りそうです〜」
「おいで利根田君、僕のスリップ使っていいから。あっはっは」と強がりを言ってみるけど、軌跡はよろよろとしてスリップが生まれるようなスピードではない。そのまま利根田君は後ろに置いていく。このあたりから前のカテゴリーからこぼれてきた人たちが周りに増えてきた。
12km過ぎた時点でふっとペダルが軽くなる。待望の下りだ。一挙にギアをトップにあげ、がんがんに漕ぎ倒す。KUOTA一台、ANCHOR一台を抜き、目の端に捉えたサイコンのスピードは52km/hrを指していた。ここが勝負どころである。2kmくらい続くこの下り区間で一挙に数台を葬り去り、最後の登坂に取り付いた。喉から呼吸音が漏れる。心臓が飛び出るようなこともないが、心拍計は170をまわっている。まだだ。まだ10くらいは伸びる。しかし身体全体がきしんでこれ以上回転数は上げられない気分。
「まわらねぇ〜」と独り言にしては大きい声を出してみるが、周りももうそんな事にかまっているコンディションではない。残り1km。ギアを最軽の9枚目に入れる。
BIANCHIを抜き、それにまた抜き返され、さらにさらにそれを抜き返し、KUOTAを抜いたところで一台づつしか入れない一本道のゴールが見えた。これ以上は順位を落とさないようにそのベルマウス状のゴールロードに向かって最後のカロリーを振り絞る。漕ぎ倒せ!頑張れ青猫、頑張れ太もも!
ゴールはあっけなく近づき、僕の初挑戦のヒルクライムは終わった。山の頂上の広場はすでにゴールした自転車で一杯。まあ、そうでしょうとも。ただ、目標タイムはクリア。次はあと5分詰めようと思った。
ちなみに春山さんは終盤に僕に抜かれ、2分差をつけて後からゴールしたらしい。全然気がつかなかった。ちょっと気分が良かったのだが、それは秘密です。なんたって会場までの往復の車は全部春山さんが運転したのだから。
「…っていう感じだったのさ、初ヒルクライム体験」
「なんからしくないですね木下先生。随分格好良いインプレじゃないですか」
「格好良いかどうかはともかく、面白かったんだよ。中目黒君も次回参加しないか一緒に」
「いやですよ。次は僕を会場までの運転手にしようとしてるでしょう」

*1:ゴール後、下りでパンクする選手が多いらしいので、ゴールで引き取る荷物に入れてあった。

*2:ロングホイルベースのツアラーで、ワイドレシオを狙って装備してあるMTB用のスプロケットも巨大。