ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

げしゅたると萌壊。

先日のこと。
帝建の仕事で、某会社の某機密扱いの資料を借りに秋葉原に行ったんである。出張内容自体はミルク・ラン、所謂朝飯前の仕事なんだが、ときあたかもAPEC開催の準備で帝都中がピリピリしている時期で、資料の持ち出しにもずいぶんと制約を受けたし、普段以上のセキュリティチェックに若干のうんざり感があったこともまた事実だ。受付で当方会社住所部署名電話連絡先ファックス番号氏名役職を所定用紙の所定欄に記入し、先方の部署名内線番号氏名役職並に打合内容予約時間珈琲準備用来訪人数を所定欄に記入したら5分もかかったのだもの。
そんな消耗戦をくぐり抜け、やっと手に入れたハトロン紙の封筒を大切にブリーフケースに入れ、無駄に逆立った心を腹式呼吸でクールダウンさせながら、初冬の大気に覆われた秋葉原の街に出たときに、それは起こった。
なんか頭に白いブリムをつけてパラシュートスカートの中にペチコートをもっさり詰め込んだ、目が異様に大きいど金髪の女がこちらに近づいてくる。淡いサックスブルーの外装は白いエプロンが映えて悪くない色合いだが、多少くすんでいるせいで灰かぶりのシンデレラといった風情。その女は目の前に来ると、今まで見たことのない人工的笑顔を瞬時にその人工的メイクで作り込まれた顔に浮かべた。
「何なんだ…」作戦行動中は通常の3倍のセンシティビティで反応するのがこの業界のスタンダードである。自身に対する明らかに異質なアプローチは、妨害工作か懐柔工作を疑って然るべきだ。せっかく手に入れた機密資料をここで奪われるのか?この間DVDで観たブルース・リージークン道は役に立つだろうか。水のように、コップに入ればコップの形に、ポットに入ればポットの形に、自在に変幻すること、みたいな講釈を垂れて、ブルース・リーはいわく有りげにニヤリとしてみせた。よく解らなかったが、郷に入らば郷に従えてことかな?ここは魔都秋葉原、常道を逸した風習があるのやも知れぬ。
そんなことを考えながら、女と対峙した。女はこちらに向かって、手をくるくる動かしながら相変わらず人工的笑顔で迫ってくる。これは挨拶なのか、それとも攻撃なのか。外務省の役人もたまに籠絡されるという例のハニーポットてやつ?女のパラフィンを塗ったみたいなローズピンクの唇がひらくのを、僕は見守った。
「もえもえにゃーん」
「何ですと?」
「もえもえ、にゃーん」
女は無駄に大きい瞳を瞬かせて見せた。わからん。全くわからん。日本語の発音であることは間違いない。するとアジア系の外国籍工作員がコンタクトしてきたとは考えづらい。音節も日本語音の区切りだし、単語としても日本語の単語のようだ。しかし、意味が全くない。そして満面の人工的笑顔。
さらに女は恭しく何かを差し出してきた。みればちり紙である。ことここに至って、脳が状況を常識的範囲で解釈し、できる限り穏便に事態を収拾することを放棄した。言語明瞭意味不明瞭の単語を羅列し、ちり紙を持たせようとする、およそ日常的に考えられない格好をした女。これが田舎のススキの原の出来事ならば、物の怪を疑うところだ。白昼堂々と真人間をたぶらかす暴挙にでたか。
無意識に半身を引き、後ろの脚にテンションを懸けて前を軽めに保ち、とんとん、と身体全体をリラックスさせると、おもむろに正拳をパンダめいた顔面に叩き込む。と、同時に脚を向こうに払うと、女は、にゃーん、と云いながらボロ切れのように散らかりながら中央通りに転がった。
「何なのだ。もえもえにゃんとは」
道行く人は師走に向けた急ぎ足で、誰ひとりとして「もえもえにゃん」についての情報を持ち合わせていないようだった。僕は中央通りに散らかるフリル付きのエプロンやサックスブルーのスカート、下着などを一瞥した。女はそれらを残したまま逃げたようだった。もしかして女の名前がもえもえにゃん、だったのか?ともあれ、機密資料は守られて無事帝建に持ち帰ることはできた。
「それはメイド喫茶の呼び込みです」と中目黒君が言う。
ところ変わってここは狸穴高校である。今日のコーヒーはコナ。甘い香りが寒々しい非常勤講師準備室を漂っていくのを見ながら、憮然として中目黒君に言った。
「中目黒君、あれはメイドぢゃないよ。メイドっぽい服だが、あれはフランスだかアメリカだかのえっちな嗜好のひとつとして、ヒュー・ヘフナーばりのひひじじいが若い女の子に着せて、色んなプレイを楽しむためのものだ」
「そうなのですか」
「そう。因みにちょっと前に流行ったキャミソールも、あれ下着だから。欧米であの格好しているのは、たちんぼさん、所謂娼婦だ。そういうセクシャルなサインを出してるってわかってやってるのかな彼女らは。メイド喫茶なんて、程度の違いさえあれ、あれは性風俗産業だぜ。それに何ですか。もえもえにゃんて」
「もえもえにゃんていうのは、漢字仮名交じりで表現すると、こうなるのです」
中目黒君は仔細らしい顔でホワイトボードに書いた。
"萌え萌え ニャン"
「なんと、中目黒君は博識だな」
「なにゆっちゃってるのですか先生。今や萌えといったら国際的に認識されたオタク文化の重要ないち要素なのですよ」
「じゃ、ニャンは」
「おそらく、夕焼けニャンニャンから始まった、可愛くてセクシャルなイメージを表現する、ニャンだと思います。なんですか先生、呆けた顔しちゃって」
「概念的なものが消費されるってどういうことか、初めて理解できた気がする」
元々萌えるっていうのは、若芽が芽吹くことなんだ。それが、可愛いものを見て自然と心の中に湧き出でてくる感情を表す「萌える」になったのはいつからなのだろう?
例えば初恋の相手のふとした仕草に誰もが感じたことのある、あのいくいくふわふわした感情、心が絞られて何かが溢れ出る感覚なんて、なかなか説明が難しいよね。だけど、アレはみんなが共有できる感情でもある筈なんだ。
昔から言い習わされた「甘酸っぱい」とか「レモンのような」とかの表現はどれも何かが足りなかった。時代と共に感覚も変わったのかも知れないし、細やかな心の動きを追うだけの余裕が、昔はなかったのかも知れない。
そこに「萌える」っていう言葉が出てきた。少なくとも以前の慣用句よりはしっくりくる響きだった。
僕らは喝采した。不定形な概念に形が与えられ、固定された瞬間だった。ひかりあれ、というひとことが光と闇を生み出したように、「萌える」っていう響きが僕らのアレを捉えてみせ、解き放ったのだった。
時代は変わって21世紀、いつの間にか、「萌え」はサービスとして提供されるようになった。そこでは、「萌える」という言葉がひとり歩きして、僕らのアレを置いていってしまった。独立した「萌える」は、アレの再現装置として動作し始めた。しかし厳密に定義できないアレを再現するために、擬似的にアレを作りだすための外殻を探さなければいけないっていう逆転現象が起こっている。「萌える」が過多になってインフレが起きたのだ。結果、あんな頓狂な格好した女が「萌える」を口にして自らが正当なアレの体現であることをアピールするみたいなことになっている。それはすでに、僕らが歓声をあげて迎えた「萌える」ではない。もっとポータブルでイージーでインスタントな別物だ。「萌える」は消費しつくされてしまったのさ…。
「…なにやってるの中目黒君」
中目黒君は踊っていた。もえもえにゃーん、もえもえにゃーんと呟きながら。多分僕の話に飽きて壊れちゃったんだと思う。