ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

サーヴィス。

嘘つきでいい加減な人生を送ってきたから、それなりの結果としてここにこうして暮らしている。不満はない。自分の投資に見合った回収ができているか、とか、いちいち気にしていたら、神経衰弱でアルカセルツァーがいくつあっても足りない。自分の一歩一歩の歩幅を気にしながら歩くようなまねをするより、嘘つきでいい加減なくらいが丁度だと信じている。これは諦観というよりは定石だ。自分の身の丈にあった器を自分で満たし、それを是とするならば、空気のにおいがわかり、水が美味しくなる。自分の容姿や評価が気にならなくなり、険しい表情をする必要もなくなる。
渋谷川の袂の、たまにどぶのようなにおいが漂ってくる路地裏で、俺は小さな酒場を営んでいる。金魚とホテイアオイと、夏には朝顔とゴーヤが生い茂る、どぶ川に面した窓際を愛していて、朝眠り、昼に起きてカウンターを磨き、床を拭き掃除し、旬のものを選んで突き出しの仕込みをし、夕方6時にひっそりと店を開ける。酒の種類はそんなに多くないが、基本的に和食に合う日本酒と、ウィスキーと、ワインを数種類、選んで置いている。
自分を仕込んでくれた師匠が大嫌いだったソニー・ロリンズのインプロヴィゼイションのレコードを掛けて、客の入りを待つ。その間、グラスを一つ一つ磨き、ボトルを一つ一つ磨き、カウンターの傷を一つ一つ磨いていると、幾ばくかのお客が入ってくる。酒の飲み方に一家言持ち、それを前面に押し出すような、名物の親父然としたマスターを、俺は嫌っている。街も店も、それを利用する人間の想いを受け止められるような無色透明感があるのがいいのだ。サロンを目指すつもりは毛頭無い。もっとベイシックでスタンダードなものがまっとうだと思っているし、まっとうなサービスが食えない筈がない。世の酒場は外連味の強いものが多すぎる。だからすぐにつぶれるし、稼ぎに波があるのだ。今日一日利用してくれる客がいることに感謝し、自分の舌と腕で紡ぎ出せる限りの最上のものを提供していれば、何とかこの街に潜り込んで生きていくことができる。
何故、こんな前置きを始めたかというと、今日来た客がいささか面倒だったからだ。脂ぎった声の大きい男と、痩せて神経質そうな男と、不思議にほほえむだけの女性という取り合わせが入ってきたのは、22時を少し回ったところだった。俺は読みかけていた群馬幹久の冒険譚を置き、若竹の煮物を持っていった。汗ばむ陽気だったので、おしぼりには少しのシーブリーズを垂らしておいた。そして、カウンターの中で臨戦態勢を取った。
すでに相当量の酒を飲んでいるらしい、声の大きい男は、「トリスでハイボールを作ってください」というと、出されたそれを水のように飲み、そして知り合いをひとりひとり揚げながら批判を始め、自分の能力がいかに正当に評価されていないかを蕩々と話しだした。神経質がそれに相づちを打ち、たまに甲高い声で笑う。女性は居心地の悪そうな体で頷きながら、静かにズブロッカを飲んでいた。正直な女性は常に少し損をする。そして、立ち回りがまずい。案の定、大声は女性に絡み、何を飲んでいるか、職場で不満はないか、何故彼氏とうまくいっていないのか、この先のキャリア形成をどのように考えているのか、しつこく訪ねられた挙げ句、芳しくない反応に興ざめた雰囲気が立ち上るという結果になった。
3人が勘定を済ませ、出て行った後、しばらくしてから女性が戻ってきた。席に忘れていった茶封筒を取りに来たのだった。
「忘れ物をしてしまったようで、取りに来たのですが、3号の茶封筒はありませんでしたか」
「こちらをお忘れでしたよ」
「ありがとう、よかったわ」
そういうと女性は、ああ、酔い覚めしてしまった、といって、メニューを眺め、それから注文した。
「ハーパーの12年でウィスキー・ソーダを作ってください」
「かしこまりました。レモンかライムをお付けしましょうか」
「では、レモンを」
「はい」
多少小さめに砕いたロックアイスを薄手の12オンスタンブラーに入れ、ステアする。メジャーカップできっちり1オンスを計り、グラスの中に放り込んだ後、バースプーンを使って静かに炭酸水を注ぎ入れた。女性はそれを逐一見ており、コースターの真ん中にタンブラーをおいたときに、小さく嘆息した。ここで俺は、この薄桃色のスプリングコオトを着た女性と会話することが、多分俺に求められていると判断した。
「畏れながら、お客様はお酒がお好きなようにお見受けしました」
「何故?」
「今時ウィスキー・ソーダという頼み方をする人は少ないです。少し前までは、ハイボールというメニュー自体が過去のものだったのですけれどね」
「そうね、多分、ハイボールの広義の意味を知らずに、みんな使っているんだわ」
ここで俺は相づちを打ち、しばらく黙った。これで十分なのだ。これ以上しゃべると、多分俺はこの女性に嫌味を言ってしまうだろう。そうならないように、無表情でグラスを磨き、音を立てないよう注意しながらパントリを片付けた。
そもそもあの席が居心地が悪いことは承知だったはずで、それであれば割り切ってトリスのハイボールを頼むか、さもなければついてこなければよかったのだ。中途半端に自分の居場所を確保しようとするからしなくてもいい苦労をすることになる。俺自身若かったときによくやった青臭い間違いだ。いささかの懐かしさを覚えつつ、心の中でそのようなことを考えていると、女性が言った。
「私、嫌なんですトリスのハイボール。とりあえずビールっていうのと、何ら変わりないわ」
「それはひとつの見識でしょうね」俺は罠に落ちないように気をつけながらしゃべった。絶対、慰めるようなしゃべり方をしないこと。
「それに、愚痴を肴にお酒を飲むのも、大っ嫌い」
「それはそれは。今日はご苦労なさったようですね」俺は罠に落ちないように気をつけながらしゃべった。そして自分の中でわき起こる熾火のような感情を抑えるのに苦労し始めた。この女、自分の容姿に自信があって誰かに拒まれたことが無い、あるいはあったとしても無邪気という名の無神経さでそれを自分の都合のいいように解釈してしまう手合いだ。あんたの酒の飲み方はなっちゃいない。
いかん。俺はすでにかなり悪い方向にステアしてしまっているのではないか。この店のサービスの根幹に関わる事故にならないよう、あくまで穏やかな笑顔を女性に向けつつ、グラスを磨き、皿を乾かした。この狭い空間で俺が出来ること、お客に提供できることは限られている。その整理された感覚がいいのだ。ここに立ち、モノを磨いているとコンダクターとしての自覚がよみがえってくる。俺は自信を取り戻し、熾火を完全に鎮火させ、心の中で静かに語り始めた。
アンディ・ウォーホル。キャンベル・スープとヴェルヴェット・アンダーグラウンドマリリン・モンローのシルク・スクリーン。ウォーホルは大量生産されるイメージに意味を持たせたところが面白いアーティストだ。
AKB48にせよ、ミニバンばかり売れるのにせよ、消費することそのものが目的の、個性のないオブジェクトやサービスばかりだ。ウォーホルは逆説的にマスプロダクツのパッケージに光を当てることで、アートにしてしまったのだが、ウォーホルのそれはマスプロダクツの否定では無かった。消費することは、つまりそういうマスプロダクツをルールにしたシステムを上手く使いこなすことであり、そのアイコンを通じて若干の毒と愛情をもってシステムを包括して見せたことがウォーホルの仕事なのだ。
そういうスタンスで物事を見てみれば、表出したハイボールだけを憎む、なんてことは無いはずだ。おっさんの理論の横溢する世界で生きていこうと思ったら、もう少しお利口になるべきだ。自分の容姿を多少の武器にして他人の厚意に無責任にすがる、なんていう破廉恥な手管を使わなくても済む。
と、いうようなことを思っているなんておくびにも出さずに、俺はほほえみながら自分のコックピットで操縦を続けた。俺は自分がかつて持っていたロマンティックな部分−愛すべき馬鹿の要素だと思っていた−を渋谷川に流して捨ててしまったのかもしれない。俺は老いた。そして俺は老いた俺を気に入っている。
しばらく間をおいて、天候の話や、渋谷川が渋谷の開発にあわせてどうなるのかといったとりとめのない話をしていたら、女性は満足したようだった。女性が何を思ったのか知らない。俺は自分の中の攻防戦に勝ったことに満足して、女性を送り出した。しばらく開いていたが誰も来ないようだったので3時には閉店し、売り上げを整理してから簡単にカウンター周りを掃除して、帰って眠った。