ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

あなたの物語。

点滴。絹ずれ。寝息。ナースコール。スリッパ。ひそひそ声。何かの計測機器が奏でるアラーム。午前2時のHCUは音に満ちている。そんな中、木下未来はスタンドライトに照らされて、規則正しく呼吸を続けていた。表情はなく、ただ機械的に息を吸い、そして吐き出す。
かぐらスキー場のメインバーン、折からえげつなく育ったウォッシュボードに舌なめずりでエアを決め、着地に失敗して頸椎骨折をした木下未来の脊髄は状態が不明で、ただ昏睡する姿に、果たしてこのまま永遠に眠り続けるのか、それとも回復するのか、誰も判らないまま、時間だけが過ぎていった。誰の呼びかけにも反応しない木下未来は、そのころ不思議な夢を見ていた。
遠くに霞む山の方から流れ来る幅広の川面を、湿った空気がたゆたう。川に直接張り出している、板敷きの高床の居間で、さらりとした肌触りの単衣を着てくつろいでいる。配膳されている朝餉は魚出汁の香る米の麺で、湯気の向こうでは、痩せた老人が立ち居振る舞いも細やかに給仕をしていた。外は雨で、川面に幾重にも波紋が広がる。
薄味の麺は柔らかく茹でてあった。啜ると背骨に痛みが走る。思わず顔をしかめると、老人が来て背中をさすった。
「せんなきこと。お怪我は軽くありませぬからな。今は焦らぬことです。時に勝る膏薬無しと云います」
「ここはどこだ」
「隠れ家です。怪我をされて担ぎ込まれたのです。お忘れか」
「今は何日だ」
老人の差し出す新聞は見たことのない文字が羅列しているのだが、何故か読みこなせる。日付はアラビア数字だった。
「俺は確か、どこか寒いところで倒れた…」
老人は呵々と笑った。
「寒いと仰るか。今年はことのほか気温も高いのに」
老人は椰子の葉で編んだマットの寝床を整えると、休むように促した。
思い出した。昨日芥子の束を運んでいる途中、野盗に襲われたのだった。水牛を急がせながら応戦し、手傷を負いつつ相手を撃退してからこの隠れ家にたどりついた。
「今は動く時にありませぬ。此処で無理をすれば、彼奴らにまた襲われます」
そうだな、と当然に納得しながら、しかし一方で釈然としない気分の源を、糸を手繰るように探しながら仰臥する。
昨日傷の痛みに耐えながら浅い眠りを得たとき、妙に現実味のある夢をみたのだ。雪山での転倒と負傷、白い壁に囲まれた病室の深夜。点滴。絹ずれ。寝息。ナースコール。スリッパ。ひそひそ声。何かの計測機器が奏でるアラーム。

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どこにでもいる、ごく普通の男に起こった出来事。
あなたの夢は木下未来の現実かもしれないし、木下未来の夢はあなたの、何の変哲もない日常かもしれない。
これは、あなたの物語。