ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

幸田文「父・こんなこと」

骨太の文章。体験に即した細やかな心の移ろいを記した文章は折り目が立ってカラリとしている。幸田露伴を軸として様々に展開する、絵解きのような日常の諸々と、圧倒的な父を前にして反発したり畏れたり、愛惜に震えたりする子の心。
僕が知っている幸田露伴は、歴史上名を残した文学者という程度の知識しかないが、苦労人で、家事全般を身をもって習った人であったらしい。その露伴から厳しく優しく掃除の仕方を教わる「あとみよそわか」が面白かった。
先週新人を連れて実地踏査の研修をし、帰りに新橋で一杯ひっかけているときにちょっと艶っぽい話になり、新人の女性が「浮気は互いに判らないでする分にはいい」と言った。僕は単に「馬鹿じゃねえの」と言ったきり、盃を含んだ。このやりとりがずっと頭に引っかかっている。その女は結婚したい男と遠距離恋愛をしているのだが、相手に対して「浮気をするのなら絶対あたしにばれないようにやってよね」という、一種諦観とも見識とも取れる言い渡しをしているのではない。それならまだ物わかりの良さと、その裏にある不安や拗ねを相手にそこはかとなく判らせる可愛い女の小言で済むのだが、女自ら他の男とちょいちょい遊んだりしているのである。そこに遊び女的なすれっからし感が無いのがさらに心を寒からしめるのだが、単に付き合っているだけならともかく、結婚を真剣に考える女のすることじゃないという抹香臭い説教を垂れ、そしてそれが聞き届けられるほど僕は人格者でも教育者でも、そもそも話術の長けた人間でもない。
露伴先生ならこのもどかしさを上手くほどいてくれそうな気がするのだ。子である文子にものを教える話は沢山載っていたが、それは父と子の関係の上に成り立つ、やっつけられるような厳しさだったり、知識の横溢に任せたしゃれのめしだったりする。他人には諦めたかと思うほどものを教えることに淡泊な露伴先生である。が、ひとつエピソードが載っていた。廊下掃除で雑巾絞りの滴をあちこちに垂らさぬよう女中に説く露伴先生はなんといったか。
「あるとき父は云った、『お前は朝っぱらから廊下でなんぞふざけていちゃいけないぞ。』『はあ?』『はあじゃないよ、見ろそこいら中にだらし無くぽたぽたたれているのは何だ。おまえも美い女でいいが、こうたらしてちゃきたねえな』と云っている。『まあ、いやなことを云う旦那様だね』と大笑いしていたが、それからはあまりぞんざいでなくなった。これは何だかちょっと私の耳に疑問を残してとまったが、あとではおきちさんを見て法を説いた父の滑稽を思うのである。父は召使いに、私を教えたようには決してしなかった。相当な文句を云いながらも任せてほうっておいた。私も一度教えられて後は任せられていたが、それでもなかなかほうりきりにはされず、時々やっと一本つけられる。」

父・こんなこと (新潮文庫)

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