ひみつ基地

ひみつ基地暮らし。

街を好きになる。

急な坂道を途中まで下り、右手にある建物の敷地に入る。骨の曲がった傘をたたむと、埃のにおいがした。
昔は青かったであろうペンキが紫外線でひび割れ白くなり、錆で浮いちゃっている階段をかんかんと音を立てて上る。安普請のぺらっぺらなドアを開けた時、まず目にはいったのは、実家を介さずに相模大野の駅前ビルから直接送った、段ボール箱二つ分の全財産と、布団袋だった。狭い6畳一間にあと付けのシンク。っていうか流し。ひとくちガスコンロ。押入れは風呂がまをふさいで作ったタイル張りで、湿気がものすごい。なぜか内線電話が大家と繋がっていて、共同風呂は家族風呂。敷地入口には「ホテル新潟」の行灯が色あせていて、つまり全体的なつくりからして連れ込み宿を改装した月額家賃22,000円也の学生下宿に、木下はたどり着いた。もう10年以上前、入学式を控えた3月末のこと。
ロードサイドのラブホが住みかなんて、なんだかアメリカンニューシネマが好みそうなシチュエーションじゃない、なんて、鼓舞しているんだか卑下しているんだか分からない状況説明を心の中で入れながら、マグカップとグラスを取り出す。布団袋を荷解きしようとしたら、力の加減を間違えて裂いてしまった。ま、これでモノが減るのだもの、身軽になっていいや。とゴミ袋に丸めて放り込む。
次の日、あられが街に降り注いだ。春にあられなんて見たことがなかった木下は、わくわくしながら坂道を駆け上がる。近くの大学病院は台地の縁に位置していて、そこから金澤の街が見渡せる。黒い甍の上に大粒のあられが落ちると、微かな、しゃらん、という音を立てて砕ける。遠くに来た気分になる。それは希望というより、不安に陶然とする不思議な感覚だった。どうやったって、今持っているなけなしの金とダンボール二箱分のガラクタと、自分の肉体と脳みそが増えるわけじゃなし、これで世の中渡っていかなければ駄目なんだ。孤独感と蠱惑感のない交ぜになった、カプセルに入ったような気分。
大学生活はのんのんと始まった。新入生向けのガイダンスを聴いて生協で受講講座にあわせて教科書を選び、ワンルーム用の小さな家電を買いそろえた。
バイトを探し、安いファーストフードの売り子を始めた。サークルに入り、飲み会に出たり、同級生とままごとめいたご飯を作りあったりして、日々は過ぎていった。外の世界と薄い一枚の幕を通してコミュニケーションするような、カプセル感は相変わらず続いた。
いつもアルバイトを終えると深夜だった。ショーケースの中を拭き掃除していると、青白い蛍光灯に照らされた自分がガラスに映る。冷たい無機質でできたようなその姿の先には、かつてそこを築城用の石材が運ばれたという、人気のない小立野通りが広がっている。深夜勤のスタッフに挨拶をして、廃棄になったドーナツをかじりながら大学病院の中を通り抜けてホテル新潟に帰る。雨の時は誰もいない施設の中を通った。がさがさと音が絶えない実験用のマウスのケージが壁一面に並んでいる部屋や、ホルマリン漬けの標本が並ぶ部屋の前を、忍び足で通り抜ける。敷地を出るとすぐ坂である。途中にあるホテル新潟は、緑深い山に抱かれて、黒い城壁のようにそびえているのだった。
部屋の窓は、その城壁に穿たれた銃眼のように坂に面している。木下は窓の前に机を置き、課題をやっつけたり本を読んだりしながら時折坂を眺めた。
ある木曜日の昼のこと。
季節は初夏に移ろうとしていた。気持ちよく晴れた日で、授業もなく、アルバイトも入っていなかった木下は机の上に座り、ちょうど机の高さにある窓のさんから裸足をたらしてマルケスの「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」を読みながら缶ビールを飲んでいた。時折坂を吹き下ろす風が木下の前髪を揺らし、ホテル新潟の裏山の木々は穏やかな木の葉擦れを奏でた。
ああ、あっちーな。
本を置いて、ビールを一口含む。向かいの民家の植木も緑が濃くなり、日差しが陰をくっきりと地面に映し出す。気づくと風がやんでいた。坂の上から、日傘を差した和服の女がゆっくりと下ってくる。それを見下ろしながら、この街で生きていくのもそんなに悪くないな、と思った。
その後、金縛りにあったり幽霊が出たりしてこの部屋を出て行くことになるのだが、それはまた別の話である。

土岐麻子の地味な仕事。たぶん2006年の竪町商店街CM。